更新日:2012/05/19
早いものでこちらに赴任して1年が経過した。ほんとうにあっという間だった。いろいろなことがあり、そのうちいくつかは前代未聞、これまでのどのセンター長も経験したことのない出来事であり、多忙なときにも次々に出てくるアポイントや問題に対処していくのは、さながら私の苦手なシューティングゲーム(shooter)をプレイしているようだった。
(そのためにセンター長雑記の執筆が滞っていたというわけではない。今年度はがんばります!)
ナイロビ研究連絡センターに日本から派遣されているのはセンター長ただひとりである。しかし「ひとり事務所」でまわっていくほど仕事量も仕事内容もヤワではなく、いつも現地職員のみんなに助けられている。現地職員は総勢6名。秘書2名、ハウスキーパー1名、庭師兼昼間門衛1名、夜警1名、運転手1名。全員がケニア人だ。今回は日頃お世話になっている現地職員をみなさんに紹介しよう。
まず、第1秘書のエスター(Esther)。わがセンター事務所を訪れたみなさんならごぞんじ、玄関を入ってすぐの机でにらみをきかせている女性である。かの女のその明るさと貫禄とは、接客には非常に向いている。最大限のホスピタリティを態度で示し、牽制すべきは牽制する。対外業務のさいの電話などは、私が要点を伝えたうえでかの女がほとんど請け負い、無茶な相手ともけんかせずに話をすすめる。事務処理能力は平均以上ではないが、かの女がこの点について発揮する才は申し分なく、頼りにしている。
第2秘書のガブリエル(Gavriel)。もともと著名な古人類学者リチャード・リーキー博士の調査チームの作業助手として雇われてのち、国立博物館に勤めた経歴を持つ。かれの能力は、研究者のかかわる組織でこそ発揮される。日本人研究者の助手として学術ジャーナル特別号まるまる1冊分の研究成果になる現地語英訳記録の公刊を助けたのは近年の業績。利害打算のために自分の頭を使うより、世間からは無用と思われるようなものごとに関して学習能力を発揮する。日本語がそのよい例で、外国人用日本語辞書を地道に駆使し、暇を見つけては反故紙に漢字の書き方練習をしている。メッセンジャー的な役割もまかせており、役所への諸手続きなどは私が書類を作成し、かれが届ける。
次に、ハウスキーパーのエミイ(Emmy)。かの女はすでに勤続およそ20年に達するほどのベテラン。私もときおり昔話をきいている。絵に描いたような働き者で、毎日事務所の床を磨き、トイレ掃除をし、テーブルをふき、来客時にはかつて英領東アフリカだったケニアの慣習にならってチャイ(ミルク紅茶)を出す。事務所には日本からの調査者のほか、現地研究者、あるいは図書の閲覧や借り出しにくる現地在留邦人の方々などさまざまな来客があるが、かの女のつくるチャイはどなたにも評判がいい。
庭師兼ひるまの門衛を請け負うのはウォルトン(Walton)。かれを雇ったのは私だが、3人いた候補のなかで、インド人邸宅での庭師の経験がすでにあったこと、正直者でいろいろなことにもよく気づくこと、そしてなによりの決め手が番犬の世話をきちんとできることだった。面接ではなかなかわからないものだが、仮雇いのあいだ、私は自分がまちがっていなかったことを確信した。庭はつねに清潔が保たれ、番犬は2頭とも目に見えて元気になった。多くのケニア人は番犬を恐がり、触ることもできない。かれは自分で犬を飼った経験があるという、珍しいケースだ。
じつは、昨年7月末にわれわれは、2003年来つとめた庭師兼門衛のチャールズ(Charles)を亡くした。急な病死。冒頭に書いた「前代未聞」のうちのひとつは、この庭師の死だった。ちょうどその直前に、かれの家族の方々と会食をする機会があったのだが、そのおなじ方々とナイロビ病院で顔を合わせることになろうとは。すぐにエスターに指示し、加入していた民間医療保険会社を説得させ、入院費そのほかを保険会社にカバーさせた。これがなかったら、この家族はその先最低2年間は借金になやまされていただろう。遺体は出身地カカメガに親族によって移送され、私は片道6時間の道行きを日帰りで弔問した。葬儀では、事務所利用者、歴代センター長から寄せられたおくやみのメールを紹介し、弔辞を読みあげた。その後約2ヶ月間、庭師不在の時期が続いた。上記ウォルトンを雇うまでは、みなで持ち回りで庭掃除をしていたものの、庭は目に見えて荒れ、なにより番犬の元気がみるみるなくなっていったのだった。
続いて、夜警のエリアス(Elias)。夜警なので、利用者の方のなかにかれを知らない方も多いかもしれない。こう言ってはなんだが現地職員のなかではもっとも強面である。しかしかれはつねに静かで、口数少ない。赴任後しばらく知らなかったが本業は牧師さんだとか。そういえば日曜日夕方の出勤時にはいつもパリッとしたジャケットとシャツを着用している。大通りで数多くの教会メンバーを従えてかれが辻説法していたという目撃情報もある。謎めいていてステキである。
さいごに、運転手のサリム(Salim)。この仕事がこんなにスーツを着る機会が多く、こんなに自動車で移動する時間が長いとは赴任前は思わなかった。かれは私の着任時、長崎大学やJICAなど日本人の組織で働いた経験を買われ、仮雇いされていた。当初は真面目すぎるので助手席の私を気にし過ぎ、かえって運転が覚束ないのではないかと不安を憶えていたが、それはさいしょの2週間ほどのこと。いったんうちとけると、かれの運転は非常に安全で、無茶をしない。常に言い伝えていることだが、急いでもいいことはない。急ぎたい車には先を譲る。前回の雑記にも書いたように、渋滞のおかげもあって現地職員のなかで、結局かれと一緒にいてしゃべる時間が通算でもっとも長くなるのではないかと思う。これからも無事故安全運転を心がけてほしい。
さて、以上で紹介は終わり。かれらとセンター長の私、あわせて7人でみなさんのおこしをお待ちしております。
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追記:
ナイロビ研究連絡センターは、日本から派遣されるのがセンター長ひとりと書いた。つまりは諸々の書類作成をはじめとした事務処理は、センター長の能力に大きく左右されることになる。決してその能力の高い方ではない私を影で支えてくださっているのは東京学振本部の関係部局の方々であり、げんに書類作成に関しては3分の1ほどを手伝っていただいているのではないかと思う。東京本部の方々もさまざまなプロジェクトを同時進行で抱えている。そんななか私をおんぶしてくれていることには、じゅうぶんな感謝のことばもない。いつも東京本部の方々にお会いするときには、身の丈が3cmくらい縮まる思いをしている。学振東京本部、とくに国際事業部のみなさま、おかげさまで1年過ごすことができました。いつもほんとうにありがとうございます。